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本船は8ノットなのに、真横に見えるブイが止まっている?

私が経験した唯一の『乗り揚げ事故』の話です。

皆さんも知っている「Emergency Astern」は、別名「Clash Astern」とも言います。長い船員生活でEmergency Asternをこの手で引いたことが一度だけあります。20年以上前にパナマックス型のタンカーに乗船しているときでした。その船がベネズエラの港へ寄港し、無事原油を満載して出港後、狭水道航行中に乗り揚げ事故が起こりました。港から十数マイルの間、港外に出るまで狭い航路が続き、両側に設置されたブイの間を延々と航行しなければいけません。

早朝に出港し、当時3/Oの私は08-12時の当直に入っていました。パイロット操船のもとで航路半ば過ぎた頃、突然、霧のような煙のような「もや」が発生し、本船左舷側から覆われ始めて、瞬く間に視界が1マイル以下となってしまいました。そのとき、たまたま船長が船橋を離れていたため、慌てて視界が悪くなったことを報告すると、船長は直ぐに昇橋しました。前方がほとんど見えないのでパイロットはレーダーとにらめっこ状態です。レーダーには航路に沿って両側に並ぶブイと漁船数隻が映っていました。

そして、少しもやが晴れたときに本船正横に見える航路の標識ブイを見て驚きました。なんとブイが動いていません。「確か本船は8ノット程度で航行しているはずなのに、なぜブイが止まっているの?」と一瞬、何が起こっているのか状況を把握できませんでした。しかし、直ぐに本船が浅瀬に乗り揚げたのだと理解できました。衝撃も振動も何も感じませんでした。恐らく底質が泥かヘドロのため、衝撃もなく浅瀬に乗り揚げたのだと思います。

機関室からは「急にエンジンの負荷が大きくなったが、どうかしたのか?」と連絡がありました。事故の直接原因はパイロットがレーダーでブイと漁船を見間違ったことです。たまたま赤ブイ、緑ブイと同じ間隔で停泊している漁船をレーダー映像で見てパイロットはブイと勘違いし、本船の針路を左に曲げ、ブイと漁船の間の浅瀬へ進んでしまったのです。

直ぐにVHFでタグ2隻を呼んで、船尾にラインを取り、全力で後方へ引っ張りますが、本船はぴくりとも動きません。そこで本船のEmergency Asternを引くことになり、テレグラフをEmergency Astern(テレグラフに「Full Again」と表示している船が多いようです。)にセットしました。激しい船体振動が始まり、数分後に(実際は数十秒だったかも知れません)ずっぽりと泥から抜けるように本船がゆっくり後進し始めました。

このときはさすがに全員が大喜びというかホッとしました。周囲に油漏れ等の異常は見当たりません。バラストタンクを内検しても異常はありません。油流出等の重大事故にならずに一安心です。当時のタンカーはシングルハルだったので、もし底質が岩で船体に亀裂が入り、原油が流出していたら、大惨事となっていたところです。もちろん、安全確認のために次に寄港した港でダイバーによる船底検査を実施しました。結果はペイントのスクラッチが数箇所にありましたが、曲損等大きな損傷はなく、大事には至りませんでした。

この事故の教訓は、「例えパイロットが操船していても航海士は気を緩めず、しっかり見張りを行い、船位を確認すべきである。そして、パイロットに必要な情報を提供すべきである。」ということです。パイロットを100%完全には信用してはいけません。もしあのとき、当直航海士である私がレーダーでしっかり監視していれば、パイロットが間違った方向へ船を向けたときに指摘できたのではないかと大いに悔やまれました。例えパイロットが乗船していても本船の安全は船長と航海士に委ねられていることを再認識させられた事故です。

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