医師がいない船上で病人や怪我人が出たときに利用する『無線医療』の話です。
長い間、船員をしていると様々な人身災害や重篤な疾病患者に遭遇します。特に衛生管理者を担当していると直接、船内で発生した病人や怪我人と接することとなります。若い頃、ある港で沖待ち中、乗組員の一人が釣りをしていて、左手の人差し指に釣り針が刺さりました。自分ではどうすることもできず、何とか抜いて欲しいと衛生管理者の私のところへやって来ました。人差し指に大きな釣り針が完全に食い込んでおり、見るからに痛そうです。
ペンチで引き抜こうとしますが、釣り針には「返り(もどし)」が付いているので、力を入れて引っ張っても「返り」が引っかかってどうしても抜けません。そのとき、乗組員の一人から釣り針の抜き方の助言を頂きました。釣り針を引かずに押し込んで、反対側から出てきた針をペンチで引き抜けば良いと言います。その通りやってみると、ものの見事に釣り針が抜けました。釣り針の抜き方を知っていた乗組員は漁師の家に育った人でした。ちょっとしたコツですが、釣りをしない人では見当もつきません。
繰り返しになりますが、船員を長くやっていると、何度かは船内で急病人や怪我人が発生し、緊急を要する場面に遭遇することがあるはずです。そんなときには可能な応急処置を施すとともに、「無線医療通信」を利用します。意識、血圧や脈拍、体温等のバイタルサインや実施した応急処置を出来る限り詳しく所定の用紙に記入し、船員保険無線医療センター等の無線医療を扱っている機関へ送付し、専門医の所見や助言を受けます。
何度も無線医療の経験はありますが、やはり、素人に毛が生えた程度の医療知識しか持ち合わせていない私達船員だけの判断ではなく、専門医の診断、助言をもらえば心強いものです。もちろん、お医者さんが直接、患者を診察するわけではないので、重症の場合は大概「できる限り早めに病院での診察・検査・治療を受けて下さい。」という助言内容となります。たとえ助言の内容が具体的な処置方法でなくて上述のような回答であっても、お医者さんの一言で病人や怪我人を下船させることを決断しやすくなるのです。
病人・怪我人を緊急下船させるかどうかを判断するとき、船長はあらゆる可能性を考慮して躊躇するものです。その迷う決断を後押ししてくれるのが「無線医療」なのです。緊急時に備えて「無線医療助言通信ハンドブック」というマニュアルがあるので、一度目を通して下さい。
参考
無線医療助言通信ハンドブック全国健康保険協会 船員保険部
乗船中に体調が悪くなり、発熱や発疹や痛みが何日も続くと、周りの人はあまり気づかないかも知れませんが、本人は非常に不安になるものです。陸上で生活しているように直ぐにお医者さんのところへ相談・診察には行けません。ですから体調の悪い船員は遠慮せず、気軽に無線医療の希望を船長や衛生管理者へ申し出れば良いのです。そして、周囲の人は本人の不安をいち早く察してあげて、本人が航海中に毎日悶々と悩むことのないよう、無線医療を利用すれば良いのです。そして、必要ならば港で代理店に依頼して病院を予約して当人を病院へ行かせてあげましょう。