ある船で乗組員が『ノイローゼ』になったという不幸な話です。
私が乗船する前から当人の様子がおかしかったようです。夜中、寝ているときに誰かが自分の部屋のドアを叩いたり蹴ったりして嫌がらせをするために眠れないというのです。そんな訴えを数ヶ月の間に何度も繰り返しました。最初は本当に誰かが嫌がらせのために夜中に彼の部屋のドアを叩いているのかと他の乗組員を疑いました。
また、夜中の当直者が部屋の出入りでドアを開け閉めするときに大きな音をさせるのかとも思いました。しかし、その階の住人である部員全員に聞いても夜中に物音は一切しないと誰もが言います。いくら嫌がらせとは言っても毎日のように夜中に起きて人の部屋のドアを蹴るという手間がかかり、根気のいる嫌がらせする人がいるとは思えません。
もし確証がないまま、彼を病人扱いにして下船させてしまってから、実は誰かのイタズラであることが判明すれば大失態です。そこで、幻聴であるか、あるいは、ほんとうに誰かがドアを叩いているのか、どちらが真実であるのか見極めるために私自身が夜中に彼の居室近くの廊下に隠れて見張り、確証をつかむことにしました。一部始終を録画するためにハンディーカメラを廊下にセットし、私が夜11時から午前3時まで物陰に隠れて、小説を読みながら見張っていました。もちろん読んでいる小説の内容はうわの空で、頭に入りません。
すると見張りを始めたその夜のことです。夜中0時30分頃、部屋のドアが開き、彼が外をきょろきょろ見渡すではないですか。もちろん誰も部屋の前を通っておらず、物音一つしていません。私が生き証人です。ついに現場の映像を捉えることができたのです。
朝、さっそく彼に昨晩の状況はどうであったか尋ねました。すると、やはりドアを叩かれたと言います。これで彼の幻聴であることが確定しました。なにせ私自身が現場を目撃し、証拠の映像まで撮影したのですから。
ノイローゼの人に「君はノイローゼだよ」と言って、「はい、私はノイローゼですね」と言う人はいません。諭すように「君は疲れているから下船して休息を取ったほうがいいよ」と丁寧に下船を薦めましたが、当人は「自分はおかしくない、契約期間を満了するまで乗船を続けたい」と一歩も譲りません。やはり契約満了前に降ろされたくはないのでしょう。
結局、配乗担当会社に連絡して事情を説明し、配乗担当者から電話で下船するよう上手く説得してもらってようやく彼を下船させることができました。彼の普段の仕事振りや雑談をしているときには、全く挙動不審な点がなく、本当にノイローゼなのかと最後まで半信半疑でしたが、彼の言動におかしいところがあるのは事実のため、降ろさざるを得ませんでした。
ある意味、薄情かもしれませんが、「病気や喧嘩のトラブルが発生した場合は一刻も早く不穏分子を取り去ること、トラブルの芽を摘むこと」がトラブルを悪化させないための鉄則です。ついつい我慢して決断すべき時機を逸して、その結果傷口を広げ、取り返しのつかないことになることを考えれば、迅速な決断もときとして必要なのです。ノイローゼの場合、下船させることが当人にとっても自船にとっても最善策となります。
不安を安心に変えるためには、少しぐらい開き直りが必要です
かなり昔ですが、恋愛のトラブルや家庭のトラブルに悩んだあげくにノイローゼになった人もいます。乗船中に恋愛問題がこじれた場合は要注意です。乗船中には彼女に会いに行くこともできず、何も解決できないまま心への負担が増すばかりです。ついこの間、外国人船員が私のところへ「下船後にフィアンセと結婚する予定で結婚式場の費用も支払っていたのに、彼女の気持ちが変わって、全てキャンセルになった。何がどうなっているのか、さっぱりわからない。下船したい」と申し出てきました。いわゆる結婚のドタキャンです。こんな場合は直ぐに下船させることです。船に留まってノイローゼにでもなっては大変です。本人の心の傷の深さは誰も知りえません。とにかく下船しないことには何も解決できないのです。
ノイローゼにかかるのは、外国人だけではありません。残念ながら最近、若い日本人航海士がノイローゼにかかってしまった事例があるようです。医学書によるとノイローゼには 「心理的な出来事」 と 「ある種の性格的な傾向」 の2つの要素がかかわっているとのことです。「心理的な出来事」 とは、航海士という重責に対するプレッシャーなのでしょう。あるいは、船という孤立した特殊な環境の中での精神状態が影響するのでしょう。「ある種の性格的な傾向」 とは、几帳面過ぎたり、敏感で繊細な性格であったりすることです。
ノイローゼになる要因にも様々なパターンがあると思いますが、キーワードとして 「不安」 という言葉が挙げられると思います。「不安」 が高まりすぎるとノイローゼにかかりやすい状態になると言われています。「不安」 自身は必ずしも有害なものではありません。「不安」な気持ちになるからこそ、人は困難に対処・改善してこられたのです。いわば「不安」は諸刃の剣のようなものです。不安は誰でも感じるものです。
また、「不安」 と 「恐怖」 は異なると言われます。「恐怖」 とは英語でTerrorと言い、ある特定の事象に対して恐ろしく感じることで、対象が判っているので対策を講じて想定範囲内で対処できるはずです。しかし、「不安」 は明確な対象はありません。不安は英語でAnxiety、Worry、Uneasinessです。「不安」 というはっきりしないものにくよくよしたり、嫌がったりしても仕方ありません。
ですから、仕事の悩みがある人は、「自分は若いのだからできないのは当たり前、船乗りになって日が浅いのだから、船の仕事を知らないのは当たり前、少しぐらい仕事で失敗するのは仕方ない」というある意味で開き直りが必要ではないでしょうか?肩の力を抜いてリラックスして、恥をかくことや失敗をすることを良しとすることです。そして、少しずつ 「不安」 を 「安心」 に変えていけば良いのです。