『お酒』にまつわる話を一つ。
最近は船内飲酒制限(Alcohol Policy)が厳しくなり、船員がアルコール依存症、いわゆるアル中になることはほとんどないと思いますが、長い船上生活を過ごしていると、疾病にかかったり災害を被る乗組員を目の当たりにすることがあります。幸い私自身は船上での大きな怪我や病気の経験はなく、現在に至っていますが、一緒に乗船していた乗組員で大きな疾病にかかったり、災害を被った方が何人かいます。その中からアルコール依存症になった人の例を紹介します。内容が内容なのであまり詳しくは説明できませんが、その状況の概略をイメージして参考にしてください。
あるパナマックス型のタンカーで日本を出港して太平洋を渡り、補油のため米国のロングビーチ向け航海しているときでした。通信長、いわゆる局長さんが乗船していた頃の話ですから、30年近く前のことです。一緒に乗船していた局長さんがアル中になってしまいました。その人は年齢50歳、人柄は快活で毎日デッキを歩いたり、筋力トレーニングをしたりする元気で陽気な人でした。
ところが誰もが気付かない間にその人の飲酒量が増えていたようです。ある日、次席さん(次席通信士)から「局長さんの挙動がおかしい、当直時間になっても無線室へ来ないので電話したら、遅れて無線室へやってきて、椅子に座ってぼーっとして返事もまともでない。」という報告がありました。
次席さんの話では、局長さんは毎日かなりの量の酒を飲んでいるのではないかと言います。そこで手持ちの酒量を調査すると局長さんのアルコール消費量が半端ではありません。2日でウィスキー1本以上の消費です。おそらく自室で毎日多量に飲んでいたのでしょう。その症状は段々ひどくなる様で、最後の方は自室に閉じこもり、話かけても返事ができないほど意識がもうろうとしていました。仕方なく、急きょ米国のロングビーチで下船させることとなりました。ロングビーチに着くまで当人を常時監視する必要があります。24時間体制を取り、昼間は出来る限り、手空きの人が局長さんの様子を監視し、夜間は当直Q/Mが監視していました。
不思議なのがアル中の症状です。普段は意識がもうろうとしているのですが、コップ一杯のストレートのウィスキーをきゅっと飲むと、人が変わったようにシャキっとして、まったく普通なのです。下船前にもコップになみなみと注いだウィスキーを飲み干し、さっそうと下船していった姿を鮮明に記憶しています。娯楽の少ない船内生活にとって飲酒は重要な気分転換、ストレス発散方法です。
しかし、「酒は飲んでも飲まれるな。」の言葉通り、適度な飲酒を心がけましょう。後日、風の便りで聞いた話では、この局長さんには人に言えない家庭の悩みごとがあったそうです。ノイローゼやアル中になる人は何かそれなりの原因を抱えているはずです。周囲の人がその原因を取り除いてあげれば良いのですが、現実にはそう簡単な話ではありません。
誰もノイローゼになりたくて、なるのではありません。知らず知らずのうちに自分を追い込んでしまうのでしょう。陸上には心理カウンセラーという専門家がおり、そのカウンセラーに自身の心の底にある悩みを打ち明けることによって、少なからず癒すことができます。しかし、船は孤立した社会で、心理カウンセラーはいません。ではどうすれば良いのでしょうか?船内にいる人々は「同じ釜の飯を食った」仲間です。「板子一枚下は地獄」という環境で働く同士・戦友です。もし、心の悩みがある人がいれば、思い切って一歩自分の殻から飛び出して、気の合った先輩や同僚に相談して見るのも一つの手ではないでしょうか?