私達船員の命を救うための「救命浮環」の話です。
救命浮環を実際に海上へ投げた経験のある人はほとんどいないはずです。私も救命浮環を投下した経験はありません。では実際に救命浮環を海上に投げた例を紹介しましょう。
ある船がアラブ首長国連邦(UAE)のFujairah錨地で補油することになりました。本船が錨泊した後、バンカーバージが本船に接舷し、先ずはSurveyorによるInitial Surveyを行います。このときSurveyorや本船の2/Eが相手バンカーバージに乗り移ってタンクサウンディングを行うのですが、安全に本船からバンカーバージへ移乗する手段がありません。仕方なく本船のギャングウェイから板切れをバンカーバージへ渡して、その上を歩いて渡りました。
手すりも安全ベルトもない状態で細い板の上を歩くという非常に危険な行動です。そして心配していた事故が発生してしまったのです。Surveyorがバランスを崩して、海中へ転落してしまいました。たまたま、それを当直航海士が目撃しており、咄嗟に付近にあった救命浮環をSurveyorに向けて海上に投げ込みました。結局Surveyorは救命浮環を掴むことなく、自ら泳いでバンカーバージ側に助けられて這い上がりました。
肝心の投下した救命浮環には救命索がついていなかったため、潮流に流されて行方不明となり回収できませんでした。その後、この当直航海士は船長に「なぜ投げたのだ!」と叱られたそうです。海へ落ちたSurveyorは助かり、結果的には投げる必要がなかった救命浮環が無くなってしまったので船長は怒ったのでしょう。しかし、それはおかしいと思います。人が溺れるかも知れない状態において、とっさの判断で救命浮環を海面へ投げたことは適切な対応であったと思います。人命第一です。救命浮環を無くしたことを責めるのは、あくまでも結果論です。
結果的には救命索付き浮環でなかったので、救命浮環は流されて行方不明となりましたが、それは結果であって、もし、そのSurveyorが溺れていたらどうでしょう?なぜ投げなかったのかと逆に重大な責めを負うことになります。投げる決断を咄嗟に行った航海士をほめてあげることはあっても、叱ることはないはずです。もちろん救命設備の流失ですから、関係先への連絡等適切に事後対応しなければいけません。ちなみに救命浮環に付いている救命索の長さの要件を知っていますか?正解はSOLAS条約により最軽喫水時の海面までの高さの2倍の長さと30mのどちらか大きい方の長さの救命索が必要です。
SOLAS Consolidated Edition 2014, Chapter III: Life-saving appliances and arrangements, Part B: Requirements for ships and life-saving appliances, Regulation 7: Personal life-saving appliances
補油時にバンカーバージへ移乗する手段の確保は、どの船でも懸案事項です。タンカーでは昔からバンカーバージへ移乗する方法として、左写真のようなケージ(かご)を使用していました。人が乗ったケージ(かご)をマニフォールドクレーンで吊り揚げて、バンカーバージへ降ろすのです。この方法は板切れの上を歩いて乗り移るよりは遥かに安全ですが、難しい問題があります。それは、マニフォールドクレーンが人を吊るための装置でないことです。
マニフォールドクレーンはあくまでも揚貨装置であり荷物・道具の揚げ降ろしに使用するものです。ですからマニフォールドクレーンの人の移乗への使用が問題となるのです。マニフォールドクレーンで人を吊り揚げて万一、人身事故が発生してしまうと、誰が許可したのかと責任問題に発展します。そのため会社も表向きには許可することを避けざるを得ないのです。転落事故防止のためにはマニフォールドクレーンを使用することが最良であるとわかっていても安易に使用できないのが現実です。原則として使用を禁止している船舶管理会社もあります。
とは言いながら、最近は安全証明書付きのケージを使用してマニフォールドクレーンでバンカーバージへ移乗する船も増えてきているようです。十分なRisk Assessmentを実施し、クレーン操作を熟練した者が行う等必要な対策を講じて、くれぐれも事故を起こさないことです。もし人身事故が発生してしまうと、またケージ使用が全面的に禁止されることになります。