航海中、突然に発生したとんでもない大事故、『錨鎖走出事故』の話です。
ある船でWindlassの整備を実施しました。左舷Windlassの油圧ブレーキハンドルの錆腐食が激しいため、新品への交換作業です。今から紹介する事故はブレーキハンドル交換作業終了後の作動テスト時に発生しました。その事故は私が過去に体験した中で最大の事故となりました。忘れもしません、あれは日本を出港して積地へ向かうBallast航海でのことでした。バシー海峡(台湾とフィリピンの間)を通過してシンガポール向け航行中の午後13時10分です。
当日はお昼休憩の後、13時より私は船長室でTOEICの試験を受けていました。始まったばかりでしたが、静かな船長室に「ガガガッ」という奇妙な振動が伝わってきました。「あれ?」今の振動は何かなと思いながらも試験を続けていると、5分後に船長室の船内電話が鳴りました。船長が受話器を取ると、大声で「何、落ちた? 1/O(当時私は1/Oでした)、アンカーが落ちた。直ぐ船首へ行ってくれ。」と慌てた様子で私に命令するではありませんか。
錨が落ちたという言葉に驚き、「航海中に錨が落ちるわけがない。何かの間違いに違いない。」と思いながら状況が理解できずに普段着でスリッパを履いたまま、とりあえず船首まで走っていきました。船首へ着いて、その現場を見て唖然としました。紛れもなく左舷側の錨が海中に落ち、10 ノット以上の船速があったため、左舷錨鎖が船尾後方45度ぐらいの方向へ引きずっているではありませんか。
おまけになんと右舷側の錨鎖も約15cmズレ落ちており、右舷錨ももう少しで落ちる寸前でした。もし両舷の錨鎖を落としていたら、世界初の「航海中に両舷錨を同時に走出した船」というレッテルを貼られたかも知れません。不幸中の幸いですが、落ちた錨が船体外板を傷つけませんでした。
大きな事故はたった一つの原因だけで起こることは稀です。殆どの事故が複数の原因が幾つも重なっており、その一つでも安全側に作用すれば事故は起こりません。いわゆる事故の連鎖、Error Chainです。Error ChainのどこかでChainを断ち切って連鎖を止めれば、事故は起こりません。今回の錨鎖走出事故も、幾つもの不運あるいはミスが重なって起こった事故でした。ここでは事故の詳細な内容は述べませんが、以下の5項目の原因が重なって起こった事故です。このうち、一つでも状況が良い方向に変わって、連鎖を断ち切っていれば、事故は発生しなかった可能性が高いのです。
① もし、油圧ブレーキの整備を延期せずに先航海に行っておけば・・・
② もし、Controller Stopperが正常に機能していれば・・・
③ もし、作業者がAnchor Lashing Wireを外していなければ・・・
④ もし、クラッチを入れてから油圧ブレーキ用ポンプをスタートしていれば・・・
⑤ もし、C/O&C/Eが現場へ行って適切な指示をしていれば・・・
事故の発生は五目並べと同じです。5つの要素が一列に綺麗に揃ってしまうと、「勝負あり」、つまり事故発生です。ですから1つでも白や黒と違う安全色にして、五目が並ばないようにすれば事故は防げるのです。事故発生要因の連鎖を断ち切ることが必要であり、それが私達船員に与えられた最重要な任務です。もちろんそれは一人では決して成し得るものではなく、船全体のチームワークで成し遂げるものです。